あまりにも不公平、と言わざるを得ない中、シナリオどおりの都知事選が幕を閉じました。財政的裏付けを取るための総務省とのやり取りに時間を取られ、ろくに準備もできないままに突入した17日間に、それでも、全国から集まった山本太郎のボランティアは数千。横に広げた支持は9万に迫る勢いだったとか。これほどの援軍が実現したのは、ただ、ひたすらに困っている人を救いたいという、彼の言葉に偽りがなかったから。今回の東京都知事選挙からわたしたちは、何を学ぶのでしょうか。
選挙は終わっても困窮者の暮らしは終わりません。太郎さんは、潔く負けを認めたうえで、現職に対し「コロナを災害指定するよう都が国に強くプッシュしてほしい」と訴えています。そうすれば、困っている人を本当の意味で救済することができるのだと。選挙が終わったからといってすぐに頭を切り替えられるのは、困っていない人で、太郎さんが知事になってくれることに最後の望みをかけていた人も少なからずいたかもしれません。
そんな中、マスコミは最後までその使命を果たさず、投票率を上昇させないための宣伝といわれても仕方のない動きに終始しました。そして、日々、目の前のやるべきことに追われて、考える暇もない人たちは、百年一日のように自分の首を自分で締めるような選択を繰り返し、太郎さんの「魂の叫び」が届くことはありませんでした。陰でほくそ笑んでいるのは、その地位を利用し公費でメディアに露出しては空虚な言葉を発して、先手必勝の準備に余念がなかった現職と、その周辺の利害を同じくする人たち。
その一部始終を見ていたわたしは、このことを個人的な経験と重ね合わせています。東京に二人いるわたしの妹は、いずれも大企業の管理職。もともと仲の良かった姉妹だったのに、あるきっかけでコミュニケーションが断絶してしまいました。既に五十を過ぎている彼女らが、自分のポストを守りつつ、子育てをしながら家庭生活を営むことがどれほど過酷を極めるかはわたしもよく知っています。
そんな暮らしを何十年続ける中、大切なものを守るためには、大企業の論理を内面化するしかすべがなかった。わたしにはそう思えてなりません。結果として、自分たちのものさしからはずれる物事を認知する能力が退化してしまったのかも。ものさしからはずれる物事については、聞く気がないのか、その余裕がないのか。観る気がないのか、その余裕がないのか。大企業の論理というものは「自然の摂理」や「宇宙の法則」とは相いれないもの。「分断」とはこのことではないでしょうか。