わが人生で、自然災害の猛威を思い知ったのは、1995年の阪神淡路大震災が最初でした。2011年の東日本大震災では、避難所暮らしに疲弊した住民が当時の菅総理に怒りの声をぶつける姿が今でもネット上に残っています。近年は毎年必ずやってくる豪雨災害。地震と違って豪雨は予想できるし、来るとわかっていながら、25年前と変わらぬ避難所風景を今年も見ることとなってしまいました。変わったことはといえば、パーテーションやマットなどの備えができたことと、コロナ渦中の複合災害ということで社会的距離がとられていることくらい。
いまとなっては、すっかりお馴染みの景色に、映像ごしにみている人はもちろん、避難している人も、ボランティアも、行政もみんな、疑問の声をあげることもなく、どこか受け入れるしかないと思い込んでしまっているようにみえます。「被災地」と呼ばれる地域が、こうやって毎年拡大していく中、あの「西日本豪雨」から2年を迎えた今月、その被災地では今も4000人を超す人が仮設住宅での生活を余儀なくされているとか。ハザードマップに色のついていない地域に住んでいる人たちだって、どこまで無事でいられるかわからないというのに、あまりにも他人事。中でも最も「他人事」なのは政治ではないでしょうか。
今年の都知事選で山本太郎さんは、徹底した対策を声をからして訴えていましたが「自分には関係ない」と思っている多くの人の心には届くはずもなく、現職支持の空虚な熱狂に掻き消されてしまった印象です。日本では、地震や豪雨自体では、命を落とさずに済んでいながら、その後の劣悪な生活環境の中で災害関連死する人がたくさんいるでしょう。それは、いったいなぜなのか。その国のリーダーの優先順位の付け方によって、災害関連死はいますぐ「0」にすることができます。阪神淡路大震災にはじまる、被災者たちの25年間を振り返れば、この国のリーダーの本質が、旧日本軍同様「人命軽視」であることは否定のしようがないのに、よりによってそんな人ばかり選んでしまう、何とも因果な国民性というほかありません。