別にお盆だからというわけではありませんが、父が遺した書き物をしみじみ読み返しています。お寺の住職を継がなかった父は、定年退職の後の再雇用でしばらく勤めた後、もっぱら世界を一人歩きするようになりました。「一人歩き」というのは、パッケージツアーによらないという意味です。リタイアするまで海外に出たことのなかった私の父は、最初の一回だけヨーロッパをパッケージで巡ったものの、いっぺんに懲りてしまって、以来、足の向くまま気の向くまま、宿さえ予約することなくエアーオンリーで現地にわたっては、バックパックの若者さながらに、32を超える国々を旅しました。
「32か国」には、 たぶんピースボートで寄港した国々は含まれていないと思います。3年前に亡くなった父の最後の海外がピースボートのそれでした。2010年8月23日の日付で父が私に宛てたはがきには、こう記されています。「小生、ピースボートで1,000人の仲間と、コンテナ船、タンカー13隻で船団を組んで、護衛艦2隻とヘリに護られ、ソマリア沖のアデン湾に入り、北転して紅海を経てスエズ運河に向かっています。」。父のいう「護衛艦2隻とヘリ」とは、おそらく、その前の年の7月に施行された「海賊対処法」を根拠に、派遣された自衛隊の派遣海賊対処行動水上部隊のことだと思います。
旅を終えて帰ってきた父が、真っ先にやることは、独学で覚えたパソコンで紀行文を書いては私たちに送りつけること。そんな紀行文の一部である「世界一周クルーズレポート(2010年)」の8月下旬の項目には、(たまたま乗り合わせた)82歳になるお仲間の一人が体調を崩し、どうやら深刻らしいということや、オマーン、サラーラ沖に出てアデン湾を南西に進む今夜は、初めて船窓のカーテンをひいて(海賊に?)備えるとありました。このとき父は80歳。その大冒険が実現したのもコロナの前だったからこそのこと。お父さん、せっかく送ってもらった紀行文。いまの今まで、まともに読んでなくてごめんね。自分ができもしなかったことを、娘に求める方が無理だよね。親子というものは、因果なもので親の死後になって初めて、対話ができるのかもしれませんね。