娘たちが帰っていきました。寂しさ半分。安堵半分。でも、どこか、夏休みの終わりのような気分です。ほんのちょっぴりのセンチメンタルに浸っている間に、世間では、この時季ならではの話題が物議を醸していました。「現役閣僚」による靖国神社への参拝問題です。わたし自身、靖国神社には行ったこともありませんし、賛否両論それぞれの主張が腹落ちしているわけでもありません。ただ、そのことに国際社会が失望しているのは、どうやら間違いなさそうです。
現役の閣僚や、総理自らが、公式に参拝することに対して、何の違和感も感じない人たちの間では、海外メディアが何といおうといわせておけばいいとの反応もあるような。これまでなら、それもありだったとしても、コロナの時代の今となっては、そうした考え方は通用しない気がします。世界で唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約に批准しようとしなかったり、国際社会の失望を無視し続けて総理や閣僚が公式な靖国参拝を続けたり。そうした、一つひとつの積み重ねが世界の中での信頼構築とは真逆に働くからです。
数年前のダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件(バングラデシュ)では、「私は日本人だ。打たないでくれ。」と叫んだ男性を含む日本人7人が刃物で惨殺されました。去年は、パキスタンやアフガニスタンで長年、医療活動に従事したばかりか、干ばつに苦しむ人々を救うために、肉体労働でいくつもの水路や井戸を掘った中村哲さんが命を落とすこととなりました。そんな中村さんは「9.11」の対応以来、日本の評判がどんどん危うくなってきて困ったものだと、友人に漏らしていたとか。そんな中、本当に「いわせておく」だけでいいのでしょうか。もう一人の娘を含め、海外を生活の拠点とする日本人も多いいま、このことを真正面から考えてみたいと思います。