「靖国で会おう」。これは、私たちの暮らすそれぞれの地域の若者が、私たちの生まれるほんの少し前に、戦地へと旅立つ際の合言葉でした。敗戦や戦後の復興どころか、高度経済成長期が過ぎ去った1972年になってもまだ、戦争が終わったことを知らず、グアムのジャングルに掘った穴に潜んでいた横井庄一さんは 、「生きて本土へは戻らぬ決意」 だったといいます。また、戦後29年間にもわたり、フィリピンで大日本帝国陸軍の作戦行為を継続した小野田寛郎さんは、その理由を「単に(中止の)命令が届かなかったから(日本会議の主張より)」と語っています。
「靖国で会おう」の約束を違えぬためには 「生きて本土へ戻らぬ決意」 はもっともで、命令もなしに勝手に作戦を中止することなどあり得なかったというわけです。以前、何度もお話ししたとおり、わたしの父は、敗戦時十五歳。同様に、当時、大人でも子どもでもなかった多感な少年少女、養老孟司さんや向田邦子さんに代表される「教科書に墨世代」は、1945年8月15日を境に自分の頭で考えないことの恐ろしさを骨身に染みて感じ取った人が、少なくなかった世代ではなかったかと思うのです。
さて、当時すでに成人していた横井さんや小野田さんのその後は、いったいどうだったのでしょう 。今月16日付のBBCの記事は、こう結ばれています。「 小野田寛郎が2014年に91歳で死去した時、追悼を述べた安倍首相の報道官は感情をあらわにした。彼は小野田の孤独な戦争の無益さについてはみじんも触れず、日本が降伏して何年もたってから小野田が殺したフィリピンの村人たちのことも言及しなかった。その代わり彼は、小野田寛郎は日本の英雄だと述べた。 」。彼らの失望のため息をよそに、靖国神社の付属施設である遊就館は、今も「あの戦争は正しい戦争だった」と主張し続けています。