以前のブログで、不思議な夢の話をさせてもらいました。2017年8月15日の未明に、南インドでみたリアルすぎる夢のことで、30年前に亡くなった祖父が出て来て、わたしにこういうのです。孫たちや曾孫たちが無事であるように、安全であるようにという意味のことを。「無事であるように」「安全であるように」とは、祖父が生前からいっていたことですが、これは、あらゆる危険を回避、あるいは乗り越えて無事に、安全に人生をまっとうしてほしいということに留まらないと考えています。
生きている間に、「自分は何度生まれかわってもこれをするな」と思えるような本当の自分に出会い、与わった「生」を生き切ってほしいという願い。この「願いの一貫性」をわたしは、人類に共通するものと信じたいし、二日前の「雷に打たれるような体験」は、わたし自身が、その一貫性に気付いた気がした体験でした。たとえば、「わたしは総理大臣です」といったときに、心の底から「自分は何度生まれかわっても、総理大臣をやるな」と思える人が、その職にあるのなら、この国のありようは、全く違ったものになっていたはずだと思うのです。
しかし、「君はなぜ総理大臣になれないのか」の映画のタイトルのとおり、願いや努力で総理になれるはずもなく「わたしの雇用主は、国民です」と公言した国家公務員が、自死に追いやられる、それが実際のありようです。本当は、政治家になどなりたくなかったにもかかわらず、たまたま「岸信介の孫」「安倍晋太郎の息子」に生まれたために、その巨大な地盤を継承しないという選択肢を周囲が許さなかったのだとしたら。その空虚ゆえに既得権益者をさらに利することとなり、これまでいわれてきた数々の「忖度」は、既得権益者の最大の望みである「現状維持」には必然で、 「わたしの雇用主は、国民です」 といった役人は、「空っぽ」が作り上げる目には見えない怪物に殺されたことになってしまいます。