「老来りて、初めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き塚、多くはこれ少年の人なり….(徒然草第四十九段)」。「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり、すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ(中略)六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず…(本願寺第八代蓮如上人「御文」)」。わたしを含み、一人の例外もなく人は、仏教でいうところの「流転」を生きているという真実を、改めて突きつけられている思いです。
1951年~2019年の台風29号までの 統計期間 で「観測史上最強クラス」の勢力で、台風10号が接近しているそうです。わたしは、 1998年の台風7号の日には奈良県にいて、最大瞬間風速56.4m/sという暴風雨を経験しています。同じ日、女人高野として有名な室生寺境内の巨木が国宝、五重塔を直撃。その優美な姿は一瞬で損なわれてしまいました。 2014年の広島豪雨の日には、広島市内にいましたが、あの日、 裏山が崩れた民家で、幼児を託された直後、一人の消防士が幼児もろとも土石流に巻き込まれて殉職。幼児を託した人は生き残るということがありました。
まさに「流転」とはこのことで、昨日までの幸福にとどまってはいられないのです。とどまれないにもかかわらず、とどまりたいとしがみつく。標準的日本人の多くが「現状維持」を志向して安倍政権の長期政権化を支えてきましたが、それが終わってもなお、その路線を受け継ぐ勢力に支持が集中するのは、人間の「執着」の現われ。状況が変わっているのに、変わっていないと思い込みたい気持ちはわかりますが、みんなそろって土石流に飲み込まれるくらいなら、「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏まうすべきものなり (本願寺第八代蓮如上人「御文」) 」ではないでしょうか。