今年のゴールデンウィーク、東京発テキサス行きの旅客機の機内で、 乗客が暴れてトイレに立てこもる騒ぎがあり、たまたま乗り合わせた米海兵隊員3人が協力してこの乗客を取り押さえたというCNNの報道がありました。今月1日には、沖縄の海で、溺れかけた5歳の少年を、たまたま居合わせた嘉手納基地所属の2人の米軍人が救助。その様子の一部始終を目撃した、もう一人の軍人は、「すべてがあっという間だった。子どもが無事でよかった」と話していたと沖縄タイムスにありました。
もちろん、沖縄の抱える(日本の抱える)根深い問題と、在日米軍の軍人個々人の善意の問題は、話が全く別です。とはいえ、彼らによる性暴力をはじめ、あまりにも凶悪な犯罪が続いていただけに、自分の中で知らず知らずに「米軍人」というネガティブな記号が出来上がっていたかもしれないことに今戸惑いを覚えます。だからといって、日米地位協定は抜本的に見直さなければならないし、辺野古の海は断じて埋め立ててはならないという意思に変わりはありません。
ただ、新型コロナの感染者を数字で認識するのと同じで、在日米軍と一口に言ってもそこには、それを構成する個別具体的な人生があり、一人ひとりの顔があることを、うっかりすると忘れてしまうことがある。それが怖いと思うのです。現実の世界には、完全な悪人もいない代わりに完全な善人もいないのに、報道の仕方ひとつで英雄を作り上げることもあれば、たとえば、若い母親が子どもを死なせてしまうようなことがあろうものなら、たちまち悪魔の記号を貼り付けて、寄ってたかってボコボコに叩く。自分も例外ではない日本人の、美徳であったはずの「寛容」はいったいどこへいってしまったのかと思うのです。