昨日は、夫の母の命日でした。夫の母が亡くなって、半年余りで今度はわたしの父が逝きました。さらに2年後には夫の父が。いずれも、長寿をまっとうしてくれたものの、遺されたものにとっては早すぎた別れ。わたしの机の上には、懐かしいいくつかの遺影が並んでいて、ゆうべは、わたしがお経をあげて夫とともに亡き人と、しばしの時間を過ごせた気がしています。ただ、わたしは朝に夕に顔を合わせている感覚で、そもそもこの国には死者と暮らす文化がありました。
今でも、田舎の旧家に行けば、仏壇を設えた座敷の鴨居の上に先祖の遺影がみつかるはず。とはいえ、親鸞聖人は「 父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」とおっしゃっています。 命あるものはみな、数知れぬ過去世における父母兄弟であったのだから、父母を知らないものにも実は無数の父母が、子のいないものにも実は無量の子が、兄弟のいないものにも実は数知れぬ兄弟姉妹がいるというわけです。
縁者とのえにしも、たとえ生きていようと途絶えがちな今の時代。遠くの親戚より近くの他人ではありませんが、近くにいてお互いに尊敬しあえる人間関係をこそ、父母兄弟と思って大切に育みたいもの。「近く」とは物理的距離のことではありません。海外にいようが、あの世にいようが、近い人は近く、たとえ隣に座っていようとも、遠い人は遠いのではないでしょうか。時間的な制約の中を生きているわたしたちだからこそ、時間配分を意識しないわけにはいきません。