恩師から入院の報せがありました。今年2度目の入院です。先生は、わたしが通っていた高校とは別の高校の英語の先生でした。不思議なご縁でわたしの思春期を、ご夫婦で支えてくださった方です。卒業後の約四十年は、ほとんど1~2度しかお会いしたことがなく、いつしか疎遠になって一昨年Uターンした際には、ご存命かどうかもわかりませんでした。でも、会うべき人には必ず会えるようになっているものですね。心当たりをたどって再会を果たした後は、四十年のブランクが嘘のようでした。
既にお連れ合いを亡くし、子どものいない先生は、今年最初の入院後、サービス付き高齢者住宅に居を移して悠々自適。従来の活動的な日常を取り戻していたはずでした。それが先週、自室で転倒。大腿骨骨折で救急搬送されたというのです。六十の大台を迎えたわが身ですらそうなのですから、八十代ともなればなおのこと。「明日をも知れない」老いの現実を心して生きねばならない。そのことを、ヴィジュアル映像でみせられる思いです。というより、人生とは本来そういうものなのでしょうが。
人生は無常の連続です。ただ、無常は無常でも先生の「無常」はセンチメンタルなそれとはほど遠く、おひとりさまの老後を、自分らしくのびのびと生きる、逞しさを教えられている気がするのです。「自立」とは、依存先を増やすことといいますが、彼女の場合、ご親族も既に高齢で「電話をしたら、あっちが先に入院していたのよ」なんてことも起こりがち。でもその代り、これまで培ってきた女同士の頼れるネットワークがあります。中には、わたしのように、一旦途切れたご縁が結びなおされて、ご本人らしい人生の完成に一役買いたいと心から願うものまで含まれるのですから、他でもないわたし自身が、そこに一筋の光明を確かに感じます。