亡き父が倒れたとき、3週間付き添って思い知らされたことがあります。当たり前といえばそのとおりですが、どんなに立派に活躍した人も最期は赤ちゃん同様の状態で死を迎えます。そのとき、わたしの目の前には、すっかり無力になってしまった父が横たわっていました。点滴や酸素の管を抜いてしまうので、ときにはベッドに拘束されて。
わたしが思い知らされたのは「尊厳ある人生」をまっとうする困難さです。病院のスタッフは皆親切でした。とはいえ彼らも人間ですから、死を待つばかりの密室で仮に父が一人になったらいったい何が起きるのだろうという恐怖を覚えたのでした。幸い父には子どもが多く、24時間交代で付き添ったため実際、父が一人になることはありませんでしたが、自分のときにはそれが叶うかどうか。
この間、アメリカ大統領選挙や大阪市廃止の住民投票について語ってきたのは、それらのことが少なからず我々の人生を決定づけるから。歴史的なうねりの中でいかに生き、いかに死ぬのか。それを考えるのに早過ぎるということはないと思います。わたしたちは年内にも遺言書を作成するつもりでいますが、死を見据えるからこそよりよく生きられる気がしています。