「 弟子一人(いちにん)ももたずさふらふ」は、念仏者たちが「わが弟子、人の弟子」といって相争っているのを戒めた言葉です。 この言葉から、しんらんさまが、自分を大きく見せようとか人を支配しようという発想からは、最も遠かったことがうかがわれます。
しんらんさまは、流刑先、越後にあっても、豪雪の地を這うように生きる人たちと「御同朋(おんどうぼう)」「御同行(おんどうぎょう)」といって触れ合いました。それは、あみださまの願いによって、やがて生きた仏になるひとたちに向けられた限りない信頼と尊敬の言葉です。
そこには、何かをやってあげる善人の自分と、やってもらっているかわいそうな人たちの差別が微塵もありません。肉食妻帯を貫いたしんらんさまは、当時の仏教界からすれば異端中の異端ですが、民衆にとっては親しみ深い存在であったに違いありません。瞬く間に拡がっていった念仏の声は日に日に大きくなっていったことでしょう。五濁の悪時にありながら、しんらんさまが90歳の天寿をまっとうした秘訣は、このような生き方によるところが大きかったと思うのです。
ちょっと前まで、経験を共有できなかったはずの私たちは、今、世界的なパンデミックという人類の危機を共有しています。そして、その一方で政治の腐敗は留まるところを知りません。ある意味、しんらんさまと同じ五濁悪時にあるわたしたちはいったいどうすればよいのでしょう。それは、情報を見極め、念仏しながら自分の頭で考え、声をあげることしかないと思うのです。念仏するのは、相対有限な私たちの活動を絶対無限のあみださまの働きへと転換するためです。