2017年に日本で公開された映画「否定と肯定」をご存じでしょうか。 ナチスのホロコーストを研究するリップシュタットが、ホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングに名誉棄損で訴えられた裁判の様子を描く「衝撃の実話」です。当時、南インドにいたわたしは、日本にいる友だちに頼んで代りに観てもらったくらい観たかった映画です。
個人的感想では、この 「衝撃の実話」 よりもはるかに酷いことが今の東京で起きています。おおよそ百年前の関東大震災で、災害の混乱に乗じ「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言・デマがひろがり、官憲や自警団によって多くの朝鮮人が虐殺されたことは、1895年(明治28年)生まれの祖父からも聞いています。殺されたのは、朝鮮人だけでなく日本人の無政府主義者もいましたが、わたし自身、このブログがきっかけで、犠牲者の中にわが香川出身の行商人の一行9名が混じっていた事実を知りました。
大事なことは、彼らの「死」が自然災害によるものではないということです。彼らは、大地震で死んだのではなく、差別による国家的な殺人の犠牲になりました。「差別による国家的な殺人」といって真っ先に思い出すのがナチスのホロコーストですが、わたしたち日本人は、それと同じ重みをもってこの厳粛な事実から目をそらしてはならないと思うのです。後世、こんな過ちを二度と繰り返すまいとして毎年9月1日には追悼の式典が行われてきました。
しかし、小池百合子都知事は、40年以上にわたって続いてきた慰霊の営みを勝手な理屈で断ち切ったばかりか、 追悼式典の実行委員会 と「朝鮮人を殺せ」と叫び歴史を書き換えようとする「在特会(在日特権を許さない市民の会)」を同列に置き、今年の式典での会場使用許可にあたって「誓約書」の提出を求めているとか。もし、今後、何らかのトラブルが起きれば都は、直ちに両集会の許可を抱き合わせで取り消すことができるという意味で、これは極めて危険な暴挙です。
「はるかに酷い」といったのは、差別をなくするために毎年一定の予算を計上しているはずの自治体が、ときの知事の個人的見解によって、扱いを変えるという意味においてです。都知事なら少なくとも、犠牲者を悼み、差別を憎み、平和を誓う自らの背中を人々に見せ続ける義務を負うのではないでしょうか。ドイツのメルケルさんを見てください。国際社会から尊敬される真のリーダーとは、彼女のような人のことをいうのだとわたしは思います。