あさって7月4日は、高松空襲の日です。1945年7月4日未明、高松市上空にB29重爆撃機がやってきて、2時間近くにわたる絨毯爆撃の末、亡くなった人だけで 1359人という損害を与えました。中でも、Open Dialogueねんきんカフェのすぐ近くにある中新町交差点は、猛烈な炎に追い詰められた大勢の人たちが息絶えた場所だとか。「(高松空襲における寺院の被害)79か寺のうち63か寺が焼失」と総務省の記録に残っている1か寺は、わたしが生まれたお寺です。
のちに再建して、このお店からいうと北西方向にあるわたしの実家(お寺)は、当時(わたしが生まれる前)は、ほぼま北の方向にあったようです。今から75年前のその日、空襲警報に飛び起きたわたしの父は、(父の)祖母を乳母車に乗せ、他の家族とともに西へ西へと必死に走って九死に一生を得ることとなりますが、もしも、そのとき父が南に走っていたらそもそもわたしは存在しなかったでしょう。そんな父は晩年「犠牲になった人を一人も見ていない」とわたしに語りました。
当時の証言は数多く残されていて父の言葉には矛盾がありますが、十五になったばかりの多感な父は、もしかしたら、悲惨な体験を抹消することで生き延びたのではと思っています。現代の感覚からすれば、75年という時間を隔てた今となっては大昔のことかもしれません。でも、長い人類の歴史からみればほんの昨日の出来事ではないでしょうか。ネットもスマホもなかったその頃と違って、いまはどんなに生活困窮でもスマホだけは持っていると言われる時代で、民衆の声の威力もけた違い。
わたしたちの暮らしを壊す政権やリーダーを生み出すのが、わたしたち自身の生き方だとすれば、戦争の夥しい犠牲に報いるためにも「沈黙」や「思考停止」は終わりにするべきではないでしょうか。これまでの75年と、これからの75年。75年後の未来なんて誰にも想像できません。でも、今日生まれた赤ちゃんが後期高齢者になるころ、(コロナの前でさえ)高齢者の3人に1人が貧困状態という社会問題が解決されているかどうかは、いまのわたしたちの選択にかかっているかもしれませんよ。