昨日のブログを書いた後、遠い記憶が蘇ってきました。確かあれは、昭和の終わる前だったと思います。高松市内で新生児の捨て子が保護され、その現場近くのお寺の境内でお産の形跡がみつかるという事件が起きました。どんな事情があったのか、様々な憶測が飛び交ったと言いますが、どこの誰ともわからない一人の女性が、おそらく一人で、小さな命を産み落とした現場となったのが、何を隠そうわたしの実家でした。
当時、既に故郷を離れていたわたしは、義母からそのことを聞かされました。「うちには娘がたくさんいるので、警察に疑われて不愉快だった」と話していたのを覚えています。あのときの赤ちゃんは、おそらく今ごろ三十代。捨てられていたのは、人目に付く公園のベンチで、育てていける目途が立たないのなら、あのときの母親の選択は正しかったのかも。これほどまでに虐待死が繰り返されているというのに、いまだにそれを、ほぼ母親だけの責任であるかのように扱うのは、システムが追いついていないからではないかと思えてなりません。
子どもの虐待問題を専門にしている今一生さんの問題提起を知ったこともあり、調べてみると、意外な事実がみつかりました。 親が子どもを育てる権利と義務は「親権」といって民法で規定されています。 虐待を行う親から子どもを引き離せない背景には「親権」の問題があるから、民法を改正しない限り虐待が終わらないと今さんは仰っていたのに、何とその民法の規定は既に平成23年にみなおされ翌年度から改正施行されているというのです。でも、それなら今さんがそのことをご存じないはずはなく、第一、なぜ、それに則した運用がなされていないのか。この問題について引き続き追跡しようと思います。