豪雨に、コロナに、森林火災と「悲観的」を通り過ぎて「絶望的」なことばかり書いてきた中で、赤木雅子さん(森友自殺で国と佐川元理財局長を提訴)の言葉にはっとさせられました。つまり、彼女の夫が自死に追い込まれた財務省は、典型的な「男社会」で、出世のために男たちがあくせくやっている、それが息苦しくて仕方がない。今回の裁判をきっかけにマスコミの取材を受けるようになってみると、大方の記者たちは同じことをやっているのがよくわかって違和感を覚えている。
どうやら、概ねそんな印象を持たれているらしく、なるほどと思いました。この国の政権が、旧日本軍の頃と全く変わらないのは、政権自体がそうである以前に、おおよそ日本の組織という組織が「男社会」を卒業できないからで、往時の軍隊の亡霊をいまだに引きずっている帰結として、冒頭の絶望的な現実があるに違いない。それは、何も、日本だけの問題ではなく、世界の多くの国がそうだから、世界的なパンデミックを許すことになったのだろう。そう思えてなりません。
小泉政権の2003年には既に「202030」の数値目標が掲げられていました。 「202030」 とは、2020年までに、社会のあらゆる分野において、指導的地位に女性が占める割合を、少なくとも30%程度とする目標のことです。ここでいう「女性」とは、小池百合子さんのように「男社会」に過剰適応した人のことではありません。たとえば、理系の女性研究者は、大型人工物の開発のような研究よりも、環境や生命に関係した研究テーマを選ぶ傾向があり、「202030」の目的は、社会を21世紀型にバージョンアップすることでした。
ここで、ひとつの救いは、男性の側にも赤木雅子さんと同じ違和感を共有する人が少なくないということ。彼女の夫である俊夫さんや、共著の相方である相澤冬樹さんもそう。出世が目的化する国民不在の官僚だったり、出世が目的化する読者が不在のマスコミは、今や当たり前のようになってしまいました。ひょっとすると、わたしの夫が40年も学校現場にいながら、生涯賃金を大幅に減らしてまで、頑として教頭や校長にならなかったのは、意気地がなかったからではなくて、それが嫌だったからかもしれません。