「親の死に目にあう」という言葉があります。日本では、夜爪を切ると親の死に目にあえなくなるといって、 親の死の瞬間に立ち会えないのは最大の親不孝だと、誰もが思い込んできたのではないでしょうか。 2017年にわたしは、父を亡くしています。父危篤の報せを受け取ったときは海外にいて、取るものもとりあえず帰国して駆けつけることができたものの、予約したはずの航空券が、何らかの手違いでキャンセルされていたり、アクシデントに次ぐアクシデントを潜り抜けなければなりませんでした。
3年前のあのときには、それが可能でしたが、仮に今だったらどうでしょう。そもそも、わたしは出国できないだろうし、仮にできたとしても帰国後の待機期間があるので間に合わない可能性が高いと思います。今回、感染症の犠牲になった方々のご家族も、その傍らに付き添うことができず、世界中で悲嘆の声が聴かれました。しかし、元の世界に戻れる見込みが立たない以上、我々の側も、そうした現実にしだいに慣らされてくるのかもしれません。まさに、人々の常識が変わる瞬間とはこのことではないでしょうか。
ましてや「100年に1度」の大雨が頻繁に降ったり、未曽有といわれる大地震が予想される時代ならなおさらです。「自分のことは自分が一番知らない」といわれるとおり、きっと、多くの人は自分の親のことを知らないのではないでしょうか。「死」とは通過点に過ぎないのだと思います。わたし自身、父が生きている時よりも、むしろ今の方が毎朝、毎晩、彼に出会っていますから。どうやら「 夜爪を切ると親の死に目にあえない」の本当の意味は、親より先に死ぬことは最大の親不孝ということのようですし、親鸞聖人は「 父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず。 」と仰っています。もう、そろそろ、罪悪感や後悔に縛られないで、重い荷物を降ろしてもいいのではないでしょうか。