考え方の異なる人の意見にも、真摯に耳を傾けることが肝要ですが、そんな当たり前が一番難しい気がします。世の中には、実に多様な価値観があって、価値観と価値観、正しさと正しさがぶつかりあうのが人間社会。人間の悩みは、人間関係の悩みといわれるとおり難しいもので、相手を敬って遠ざからなければならないことも少なくないもの。しかし、仮にそうだとしても、いったんは徹底的に話を聞いてからにしたいものです。
たまたま目の前に現れた動画の中で、高須克弥さんが、こんなことを語っていました。「靖国に祀られるということは神になるということ」「神は永遠である」「靖国で会おうというのは単なる比喩ではなく、永遠の命を手に入れるために、子孫のために戦おうという志だ」。この動画が目の前に現れたのは、先日来、小野田寛郎を検索したからで、約25万回も再生されている生前の動画の中で、小野田さんはこう述べています。「日本の国の国権に対する意識が非常に薄くなって、自分さえよければいいという感覚に陥ってしまっている(のが気に入らない)」これが自分の言いたいことだと。
思想を同じくするお二方の主張を総合すれば「私を滅して身命を賭して国のために働き、死んだら靖国神社に祀ってもらって永遠の命を手に入れよう」ということになります。もしくは「私を滅して国のために死ぬまで働いても、死んだら靖国神社に祀ってもらって永遠の命が手に入るのだから安心だよね」とでもいうメッセージでしょうか。でも、そういうことなら、高々、明治やそこらの創建で、陸軍省や海軍省の管轄だった靖国である必要は全くありません。この国には、八百年の昔から親鸞浄土教が今に受け継がれていて、滅私奉公なんかしなくても南無阿弥陀仏と唱えるだけで、永遠の命が手に入ると説かれていますよ。