お互い再婚同士の夫とわたしが一緒になったとき、夫が持ってきたのは、後に手放す際に、断腸の思いといった藤沢周平全集でした。その藤沢と同郷で、よく似た経歴の佐高信さんは、著書「司馬遼太郎と藤沢周平」の中で両者の違いを「上からの視点」と「市井に生きる」あるいは「司馬は商人であり、藤沢は農民である」と語っています。藤沢作品には、必ず、市井の働く人が登場しますが、わたしがこの仕事に行きついたもの、思い起こせば、働く人たちにもらった「ご縁」によります。
在職中に身体を壊したわたしは、主治医の紹介で、北陸沿岸域のある病院で冬を越したことがあります。温暖な香川に生まれた者が、冬の日本海を垣間見た、それがはじめての経験でした。両親ともに浄土真宗の古い寺の出身で、自分自身もそうであるわたしは、DNAに組み込まれた親鸞思想を自覚してきましたが、親鸞浄土教の神髄は、聖人の配流先である越後でこそ、開花しえたものかも。藤沢周平を理解するには、まず、冬の日本海を知らねばならないといわれるとおり、だからこそ、琴線に触れてやまないのでしょうか。
社会保険労務士の顧客は、多くの場合、街の社長さんたちです。でも、わたしの場合は違っていて、病やケガで困っている市井の人たちで、いまだになかなか分かってもらえませんが、いってみれば「司馬遼太郎的価値観」からはじき出された人たちです。わたしの役割は、傷ついた彼らの、内側からの、生きる力を呼び覚ますこと。冒頭の本の中で佐高さんはいっています。「寒さに凍えた人間をいきなり暖かい火に当ててもだめ」。それに応えて、対談相手の宮部みゆきさんはいいます。「雪で摩擦することで本来持っているはずの体温を引き出す」と。人は内側から湧き上がる何かによってのみ、命を輝かせることができるものですものね。