わたしは、思うところがあって五十の手習いで社会保険労務士になりました。2011年。東日本大震災の年のことです。しかし、いざ、資格をもらってみると、「社会保険労務士」という言葉が独り歩きして、得体のしれない居心地の悪さにまとわりつかれるような経験を、けっこう長い間することになりました。社会保険労務士には、中小零細企業の人事・労務管理等をアウトソーシングで行っている方が多く、経営者のパートナーであることが求められます。社会保険労務士とはそういうものなのだから、当然、そうしたあり方を自分にも、社会の側が迫ってくるような、それは、そんな違和感でした。
別に、積極的に「 経営者のパートナー 」となることを拒んでいたわけでは、決してありませんが、「〇〇なんだから、こうあるべき」という文脈自体に、無意識に拒絶反応を示した気もします。というのも、少なくとも女性である限り、自覚するとしないとにかかわらず、こうした文脈には苦しめられ続けてきたはずで、五十を過ぎてまで、何でわざわざ、自分にそんな窮屈なことを強いなければならないのかという思いがどこかにあったのかもしれません。このことは、時間の経過とともに、自ずと考え方が整理されて、自分らしい社会保険労務士像に、それなりには近付いている気分でいました。
それが、今回コロナで安富歩さんのいう「立場主義」という言葉に出会って、目から鱗が落ちる思いです。安富さんの紹介する、ポルトガル人の作った日本語の辞書には、立場という言葉の用例として「立場を守って討ち死にする」とあるとか。まさに、言い得て妙ですが、これは八百年の昔、親鸞聖人が嘆いた「歎異抄」の「異」も同じ。鎌倉時代も今も、ほとんどの人が、仮面をつけて「われは何々なり」という呪縛にとりつかれ「仮」にしか生きられない。歎異抄の「異」は、正しい信心と違うということに加え、このことをこそ、聖人は嘆いておられたのだと知った。これは、わたしにとっては、雷に打たれるような体験です。