昨日、母国語のことを書いたら思い出したことがあります。イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリさんが、人類をひとつの組織体としてまとめあげるための大きな要素として「宗教」「貨幣」「帝国」の3つをあげていることです。そこに「言語」が入っていないのはなぜなのかと思って調べてみると、たとえば、日本の標準語の歴史って、意外に新しいのですね。標準語誕生の歴史を検索すると、「標準語」作りが国家事業として推進されるようになるのは明治時代もなかば過ぎで、本格的に普及し始めたのは大正末期のことらしいとわかりました。
ということは、それまでは、地域ごとにそれぞれのお国言葉を話していたわけで、関東の人が讃岐の言葉を理解するのは難しかったに違いありません。以前のブログで触れたとおり、関東大震災時に讃岐の薬売りが、言葉がおかしいからといって朝鮮人だと決めつけられ虐殺されたのも、そんな背景があったからでしょうか。そうやって考えてみれば、わたしたちは既に十分にアイデンティティを失ってしまっていることになるのかも。言語の重要な役割が、固有の文化やそれに基づく価値観を共有し意思疎通を図ることだとすると、本来の機能はかなり損なわれている気がします。
21世紀にはいる前から、全国どこへ行ってもコンビニがあったり、ファミレスがあったり。せっかく、その土地の伝統料理を楽しみたいと思っても、地域の個性がどんどん失われていってがっかりし続けてきましたが、それと同じことがわたしたちの中でも起きていたのでしょう。そこへ、さらに災害が追い打ちをかけて、東日本大震災の際には、有形無形の文化遺産が根こそぎ波にさらわれました。旅の醍醐味は、異文化とのふれあいだったはずで、違いがあるからワクワクしたのに、みんな同じなら退屈で、人生の楽しみも半減してしまう気がします。