脳科学者、中野信子さんの本「キレる!」の冒頭に「“キレ”なければ搾取される」とあります。この言葉に思わずハッとさせられたのは、むかし聞いた話がわたしの中で咄嗟に蘇ってきたからでした。ある娘さんが職場の人間関係で悩んでいたころ、勤めていたお店の金庫から売上の一部が消え、濡れ衣をきせられたというのです。娘さんの両親は、もちろんわが子を信じていました。しかし、さまざまな圧力に屈して最終的には、取ってもいないお金を弁償することになったとか。
以来、娘さんは家から出られなくなってしまいました。それからの何十年、彼女は外へも出られず家の中で孤立を深めたといいます。この話を聞いたとき、目の前の母親にどう言葉をかけていいのか戸惑いました。というのも、それがいいか悪いかは別として、わが娘が理不尽なめに遭うたびに一緒になって声をあげていたころのことですから、わたしが一言発するだけで、目の前の母親を責めてしまうことになりはしないかと恐れたのです。
標準的な日本人は、いまでも「波風を立てない」ことを美徳と信じています。自分が信じているだけでなく、周囲にもそれを強いるのです。怒らなければならないときに、怒ることをせず、押し殺した怒りは、必ずどこかで噴出するもの。無理やり抑えた怒りの感情は、たいていは、より弱い方へより弱い方へと向かいます。怒らなければならないときに、正しく怒こるということは、生きやすい社会をつくるうえでも重要です。子どもたちに教えるべきは、波風を立てないことではなくて、上手なキレ方だと思います。